なぜスポーツに義務感、強制感が生まれるのか②

指導論

前回の続きです。

こんにちは、ゆとりです。今回も記事を見てくださってありがとうございます。

前回に引き続き、なぜスポーツに”やらされ感”を感じてしまうのか考えていきましょう。

前回のまとめでは、スポーツの目的が人間教育になってしまうことでスポーツ本来の自由や自発性が失われ、子どもたちがスポーツを楽しめなくなったのではないかという結論に至りました。

そこで今回はまず、そもそも全く真逆の理念・特徴を持つスポーツと学校教育がなぜ結び付けられているのかについて、早稲田大学教授の中澤篤史先生の著書『運動部活動の戦後と現在』を参考に考えていきます。

全く真逆のスポーツと学校教育

前回の『なぜスポーツに義務感、強制感が生まれるのか①』でも触れた通り、中澤先生は自由かつ非生産的で、義務や強制に縛られない「遊戯」であることが絶対条件であるスポーツと、遊戯を認めず、生徒に義務を課し強制する学校教育が結び付けられていることに「原理的に矛盾があるのではないか」と指摘しています。

日本の部活動は世界でも非常に特殊な文化です。大半の国では部活動よりも地域クラブが盛んですし、全く部活動が存在しない国もあります。

部活動がここまで大規模に発展し、しかも「教育」を目的として行われているのは世界でも日本くらいです。

大半の国では、スポーツと学校教育は全く別のものとして扱われています

また日本でも、部活動は教育課程にのっとって行われているわけではありません

だから部活の顧問は教師本来の仕事ではなく、完全なサービス残業・ボランティアであり、教師の過剰な労働時間の主要な要因になってしまっています。 

教育課程の授業と違い、部活にはマニュアルもなく、教師が部活指導について学ぶ機会もありません。

では本来的には相容れないスポーツと学校教育は、一体どのような根拠で結び付けられているのでしょうか。

中澤先生は「身体の教育」を意味する「体育学」という分野で熱心に議論されてきた

 ① 人格形成説
 ② 身体形成説
 ③ スポーツ文化説

という3つの説を用いて考察しています。

スポーツと学校教育が結びつく根拠 3つの学説

3つの説をざっくり説明すると、まず1つ目の「人格形成説」は「スポーツは人格形成に役立つから、学校教育内で行うのは当然だ」という考え方です。

次に2つ目の「身体形成説」は「スポーツをすれば身体が鍛えられて体力もつき、これは良いことだから学校で行うべきだ」という考え方です。

最後に3つ目の「スポーツ文化説」は「スポーツは大切な文化であり、より良いスポーツ文化を次の世代に伝えるために、学校でスポーツを教えるべきだ」という考え方です。 

これらの説はそれぞれ説得力があり、一見すると非常に的を射ているように思えます。

スポーツが人間的成長に役立つというのは多くの日本人が信じていますし、子どもの運動不足が叫ばれる今、スポーツによる健康な体作りも大事です。

またスポーツは自然発生的に存在しているわけではなく、人間が生み出した文化であるため、それを継承していくのも意義あることです。

しかしこれらの説には疑わしい部分、批判もあります

まずおそらく最大の根拠である「人格形成説」ですが、スポーツが人格形成に役立つという科学的な根拠はありません

これまでも多くの研究者が、部活に参加している生徒と参加していない生徒を比べて、スポーツが人格形成に役立つのかを調べてきました。

中には「スポーツをすることで性格が良くなり、非行が減る」というように、スポーツの効果に肯定的な研究結果もあります。

しかし一方では「スポーツをしていたかどうかは性格や成績、その後の進路や就職には関係ない」という結果や、「スポーツをすると暴力的な性格になる、成績が悪化する」などむしろスポーツをすることが教育上良くないと結論付けた研究結果もあります。

中澤先生は「結局のところ、スポーツは良い人間をつくるのかどうかはわからない。スポーツは人格形成に役立つのかどうかわからない」という結論を出しています。

スポーツが人格形成に役立つことが前提の「人格形成説」は、非常に疑わしいです。

「身体形成説」も確かにうなずける部分はあるものの、この説には現在の部活動で問題となっているのは生徒たちの運動不足ではなく、むしろ運動やスポーツのし過ぎであり、部活動の過熱化であり、度を越した活動の結果起こるけがや事故ではないかという疑問が残ります。

スポーツが遊びではなく、教育とされることで大人たちが介入し、活動が厳しくなることで結果的にケガや事故など、子どもたちの身体に悪影響を与えているという見方です。

これを踏まえて「子どもたちの心身を守り、健康に育てるためにこそスポーツと学校教育を切り離すべきだ」という考え方もあります。

また「スポーツ文化説」も同じように「スポーツの文化的価値を重視するからこそ、スポーツと学校を切り離すべきだ」という意見もあります。

学校教育下では様々な制約に縛られ、本来の自由なスポーツ文化の発展が阻害される危険性があるからです。

まとめると、結局のところスポーツが教育に結び付くことに、学問的な根拠はないのです

なぜこうなったのかを知るためには、日本におけるスポーツ・運動部活動の成立や発展の過程からさかのぼって考えていく必要があります。

スポーツが教育になった本当の理由

日本のスポーツ・部活動の原点になったのは東京大学でした。

当時の東京大学にはお雇い外国人がいて、欧米の優れた知識・技術・文化を日本に伝えており、スポーツも彼らによって明治初期に海外から持ち込まれました。

学生たちは熱心にスポーツを行い、体育会系組織が設立されていきました。これが今日の部活動の基盤になっています。

近代化にともないスポーツが輸入され、部活動として発展していく過程は、一見すると素晴らしい文明開化の象徴のようです。

しかしこの時代から既に、日本スポーツの矛盾は始まっていたと私は考えます

何度も言うようにスポーツは「楽しむ」ことが目的ですが、文武両道という言葉が表すように、日本には身体を使った競技的活動は「武道」しかなく、楽しむことに主眼を置くスポーツの発想は存在していませんでした

武道は楽しむものではなく、精神鍛錬のためのもので、スポーツとは似て非なるものです。

それにもかかわらず、日本においてスポーツは武道のように扱われました

スポーツで最も大切な「楽しむ」という要素は排除され、代わりに武士道的な精神修行の要素が付け加えられます。

それは政府が掲げる「富国強兵」のスローガンとも合致し、スポーツ・部活動は「心身を鍛える場」とされ、学校や軍隊・政府の影響を強く受けて発展しました。

また戦後はそれまでの軍国主義教育が反省され、生徒の自主性を伸ばすため新たな教育方法が模索され、そこでも部活動が注目されます。

部活動はその後も東京オリンピックへ向けての競技力向上や、生徒の非行防止などの効果も期待され、スポーツの主体が学校教育から離れることは遂に今日までありませんでした。

しかしこれらも全て、スポーツが教育に役立つという学術的根拠のもとではなく、あくまで「おそらく役立つだろう」という程度の思い込みによって行われたものです。 

つまり日本においてスポーツと教育が結びつけられているのは、何か明確な根拠があるわけではなく、ただの慣習なのです。

まとめ

この記事の内容・考察はいかがだったでしょうか。私は「なぜ自分で始めたスポーツに義務感・強制感を感じてしまうのか」について、ある程度核心に迫れたと思っています。

スポーツは本来何かに役立てるためではなく、自由にやるものなのに、それが根拠もないまま教育と見なされることで大人が過剰に介入し、スポーツの楽しさが阻害されてきたと私は考えます。

義務や強制からの解放を意味するスポーツが、逆にそれらの象徴のようになってしまっていました。

ただ誤解してほしくないのは、私は別に、スポーツの教育的効果を否定したいわけではないということです。全員とは限りませんが、一生懸命取り組むことで、結果的に人格が成長する可能性も十分あると思います。

しかしそれはあくまで結果であり、それがスポーツをする”目的”ではないはずです

人間的成長などは後から振り返ったときに実感すれば十分で、それが第一の目的ではないと思います。

さて最後は今後私たちが、スポーツにどう向き合えば良いのかについてです。

私はいっそはっきりとスポーツを「教育上役に立たないもの」と認め、学校教育から完全に切り離すべきだと考えます。そして指導者の大きすぎる権力を抑え、子どもの主体性が発揮されるようにするべきです。

「役に立たない」とは全く悪口ではありません。むしろ「役に立たなくて何が悪い」と私は思います。

何の生産性もない遊びを楽しめることこそが人間の素晴らしさであり、そして仕事も何も気にせず遊びに全力で取り組めることこそ若さの特権じゃないですかと

これはあくまで私の個人的な考え方ですが、みなさんはどうお考えでしょうか。ぜひコメントお願いいたします。

お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

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