なぜスポーツに義務感、強制感が生まれるのか①

指導論

 

こんにちは、ゆとりです。今回も記事を見てくださってありがとうございます。

さて、純粋に自分が好きで興味があり、自分の意志で始めたはずのスポーツなのに、いつの間にかただ怒られないように、スポーツを”やらされている”状況になってしまうことって多いですよね。

やらされながらやるスポーツはただただ苦しくつらいだけで、本人が望むものではないと思います。私も野球部時代はひたすら監督に怒られないことだけを考えて、楽しいと思えたことなんてほぼありませんでした。

ではこの現象は、一体なぜ起こってしまうのでしょうか。

スポーツがつらくなってしまう原因は、直接的には指導者の行き過ぎた体罰(暴力)や罵声、厳しい練習、チーム内の上下関係や人間関係など様々ありますが、今回はなぜスポーツを楽しいと思えないほど厳しい練習や指導者が存在するのかについて考えていきましょう。

原因はホントに勝利至上主義?

厳しすぎるスポーツ指導が行われる原因について、近年注目されているのが「勝利至上主義」です。

勝利至上主義とはスポーツにおいて勝利のみを重視し、勝利以外を認めない思想のことです。短期的に勝利を追い求めることで指導が過熱し、選手に無理やり練習をやらせたり、罵声や暴力に頼る指導になりやすいという特徴があります。

近年はメディア等でも勝利至上主義の弊害が指摘され、勝利至上主義を脱っすることがスポーツ指導の解決策であると多くの人が考えるようになりました。

そのための方法も色々考えられますが、主流なのは「部活動は「教育の一環」なのだから、目先の勝利ではなく選手への教育や、彼らの成長に主眼を置くべきだ」という意見です。

確かに行き過ぎた勝利至上主義は、選手に明らかな教育上の悪影響を与えていました。しかしそれではスポーツの教育的意義を強調すれば、現在の問題は解決するのでしょうか

私はそうは思えません。なぜなら日本のスポーツ指導は既に十分すぎるほど教育として扱われ、教育を目的として行われているからです。

例えば勝利至上主義だと批判される指導者はたくさんいますが、じゃあ彼らは人間教育を軽視しているのかと言うと決してそんなことはなく、むしろ厳しい指導者ほど部活動の教育的意義や、人間的成長の大切さを熱心に語ります。

彼らは厳しく指導することこそ選手ためで、選手の成長につながるという考え方なのです。

だから最後の大会が終わった3年生には「大切なのは勝ち負けじゃなく、それまでのプロセスの方だ」と語ります。勝利至上主義とは真逆の言い分です。

はた目には「厳しすぎる」と思われる指導をする人たちも、そのほとんどが「自分は選手の成長のために指導をしている」と信じています。

確かに「勝利至上主義に陥った悪い指導者が教育を逸脱し、過剰な指導をすることで選手を苦しめている」という理屈は単純でわかりやすく、多くのチームに当てはまる事実ではあります。

しかしこれだけで、現在のスポーツ指導の問題のすべてを説明することはできません。

本気でこの問題を解決し、子どもたちが楽しくスポーツをできるようにしたいと思うなら、まずはそもそも「なぜ人はスポーツをするのか」という、スポーツの目的から考える必要があります

スポーツをする目的

「部活動は教育の一環」と言われる通り、日本ではスポーツ、特に学生や子どもが行うスポーツは人間的に成長するために行われているという考え方が一般的です。

しかしこれは本当でしょうか。スポーツは何か利益や学びを得るためでなく、純粋にその競技自体を楽しむためにあるはずです。

スポーツの語源は「運び去る」という意味のラテン語 deportare から来ており、スポーツは日常的な仕事や教育等の義務からの身体的・肉体的開放、つまり「遊び」を意味します。現在のスポーツの定義も「遊戯・遊び」が中心であり、非強制的で自発的、自由な活動だと見なされています。

このスポーツの語源・定義と、学校教育の考え方は完全に相反します。

なぜなら学校教育は義務的で、主体は教師側にあり、決して自由な活動ではないからです。

つまり自分の意志で自由に楽しむためにあるはずのスポーツが、なぜか教師たちが主体となり、人間教育を行うためのものになってしまっている。この矛盾こそ、日本の多くの子どもたちがスポーツを楽しめない最大の原因ではないかと私は思います。

目的が教育になることで、指導者が絶対化される

私はスポーツの語源・定義を踏まえ、スポーツは「将来の役に立てる・人間的に成長する」といった利益のためにやるのではなく、むしろそれら義務的な学校教育からの解放として、自由に自分の意志で楽しむためにあると考えます。

そのため主体となるのはあくまで選手であり、指導者はそのサポーターです。

選手の主体性を守ることこそ、スポーツ指導において最も大切なことです。何事も「やらされている」と感じるものに楽しさなど感じませんし、モチベーションも上がりません。

選手が自分の意志でやっているのか、それともやらされているのかが、良い指導かどうかの分岐点です。 

そして選手の主体性を第一に考える場合、やはりスポーツを人間教育に結び付けるのは無理があると思います。

なぜなら「これは教育だ」と言ってしまうと、どうしても選手ではなく、教師や指導者などの大人が主体になってしまうからです。

目的が教育になることで、スポーツはそれ自体を楽しむものから成長のための”手段”、教育の材料となり、指導者の権限が絶対的になります。

代々日本のスポーツ指導者たちはスポーツを「人間教育の場」と捉え、何とかスポーツを選手たちのためになる、「役に立つもの」にしようとしてきました。もちろんそれ自体は素晴らしい思想・文化だとは思います。

しかしそれらの「選手を成長させなければならない、教育しなければならない」または「野球道とはこうあらねばならない」などといった、義務や強制を伴う一方的な働きかけが、純粋にスポーツを楽しみたい子どもたちにとっては過剰な負担になってしまっていました

また「精神鍛錬」や「人間的成長」という建前が、行き過ぎた勝利至上主義や理不尽な指導をもまかり通らせてきました。

まとめ(一旦)

この記事は前編後編で完結ですが、一旦ここまでのまとめをしておきます。

私は本来は選手の主体性に基づいて行なわれるべきスポーツが、学校教育に結び付けられることで指導者が絶対になり、一方的な指導になってしまっていることが、今日の様々な部活動問題を引き起こしていると考えます。

では原理的に相反するスポーツと学校教育は、なぜ結び付けられているのでしょうか。それについては次回考えていきます。

お読みいただきありがとうございました。

コメント

  1. […] 前回の続きです。 […]

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